ユートピアを目指して

中学で不登校になってから、生きづらさを感じている20代女子のブログ

既卒で入ったベンチャーを「卒業」したきっかけ

お久しぶりです。mukuuです。

 

今日は、既卒で入ったベンチャーを辞めるに至った経緯について綴ります。

 

多国籍の人々が集まるその会社では、日々刺激的な毎日を送っていた。

ただ、エンジニアでも営業でもない私の業務は、バックオフィス担当として、いわば「雑用」を場当たり的にこなしているだけだった。

もっと、専門的に業務をやりたいと思っても、日々発生する細々した業務、エンジニアやデザイナーをアシストする仕事などで、家に帰るころには精魂つきはて、スキルアップのための時間を作ることも、その方法を探すことも難しい…といった感じだった。

そんな中、これからどうしよう、という焦りだけを抱えていた。

 

しかしある時、ふと思いついた。

「心理カウンセラー」の仕事ってどうなんだろう。とても興味がある。

 

もともと、「人間」のことを考えたりするのは好きだったけど、それはあくまでも性格で、仕事にするようなものではないと思っていたし、選択肢として考えたこともなかった。

 

一度気になりだしたら、もう止められないのが私の性格。

資格を取るための大学院を調べたりしているうちに、このままこの会社に残って仕事を続けながら勉強しても中途半端になるだけだ。

と、思い切って退職したのだ。

 

確かに、職歴的に見ればそのまま仕事をしつつ受験した方が良いに違いない。

しかし、そのメリットを全く考えられなかったのだ。

 

外国人社長の圧に負け、既卒としてなんの交渉術も持たなかった私は、会社が提示した通りの条件で入社していた。

もちろん、タイムカードなどもないし残業代の概念もない。本当に忙しい時は休日出勤もさせられそうになっていた。正社員は身分が保証されているというが、賞与もなければ上司がクビにされているのを見ていた私は、そこに何らメリットも見いだせなかった。

「満足のいく給与ももらえず、勉強する時間も確保できない。これだったら、まだアルバイトで稼ぎながら勉強した方がよいのではないか」

 これが私がいとも簡単にやっと見つけたはずのベンチャーを辞めたきっかけである。

 

しかし、辞めた後もやはり一筋縄ではいかないのが人生。

その先には、体調不良や新たなベンチャーとの出会いなどが待っていた。

 

外資系ベンチャーでの日々

こんにちは。mukuです。

 

大学を卒業後、内定のなかった私は既卒で就活を続けていた。

そもそも、大学時代にはほとんど就活をしていなくて、説明会に行っては「ちょっと違うかな」と帰ってくるを繰り返していた。

選考を受ける前に、エントリーすら数社しかしていなかった。

正直、「大人慣れ」していたので、面接には自信があったし実際にいいところまで行った企業もあったのだが、入社する、という踏ん切りがつかなかった。

 

そんな中、既卒で就活をしていた私は、あるベンチャーと出会った。

アメリカ国籍の社長が立ち上げた企業で、20人いた社員の半分以上は外国人。

日本人もインターンの学生から営業、デザイナーと様々な人種がいた。

一目ぼれだった。

 

その企業で働いた日々は、本当に素晴らしかった。

「水を得た魚」という言葉を頭のなかでずっと繰り返しているほど、今まで生きてきて一番充実していて、刺激的だった。

 

ベンチャーだったその企業は世間の目から見れば「ブラック企業」だったのかもしれない。

確かに、毎月誰かが辞め、新しい人が入ってきていた。

朝出社すると、目の前で直属の上司がクビをきられ、即刻出ていくように命じられたこともあった。

それでも、中国人同期の「欧米系の企業ではそんなこと日常茶飯事だよ」という言葉に妙に納得し、

NY仕込みの早口な英語を理解できない日本人たちは、空気のような扱いを受けながらも、不思議と「生きづらい」と感じたことはなかった。

 

なぜなら、彼らは仕事に対してドライで、自分の役割をこなしていればプライベートに干渉することはしてこなかったから。

アメリカ、スウェーデン、トルコ、マレーシア、韓国、中国など様々な人が働いていて、「自分と相手が違うのは当たり前」それを前提にすべての物事が進んでいた。

これが妙に自分とマッチしていた。

 

でも、さすがにそんな企業に長くいることは将来に繋がらないこともわかっていた。

環境は最高でも、ただひたすら事務作業と雑用をして、終電で帰るような日々では自己の成長は望めない。

そこで、他に進むべき道が見えたときは絶対にやめようと心していた。

 

長くなりそうなので、続きはまた次回に分けます。

一つの職場でじっとしていられない

私は、今まで2年以上、同じところで働いたことがない。

いつも、このままではダメだと思い続け、何か新しいことに挑戦しなければならないと考えていたら、じっとしていられないのだ。

 

みな不安ではないのだろうか?

自分の会社、仕事、大切なものがいつかなくなるかもしれない。

今日あったものが明日にはなくなっているかもしれない

「絶対」なんて言いきれるものはないのだと。

 

それでいて、今まで経験したことのない「安定」というものに憧れもある。

きっと私には一生縁のないものだろうと考えると余計に、不思議で、いじらしい言葉に聞こえる。

 

このスタンスはもはや変わらないだろう。

だったら、そんな私でも食いっぱぐれることのないよう、今働いている仕事を全力でこなして、どこに行っても通用するような人間になりたい。

中二で不登校になったとき、周りは誰も責めなかった

こんにちは、mukuです。

 

私はまだ中二病を引きずっていると思う。

周りの友人たちもまだ抜け出していない子が多いし、それでも社会に出て、自立できているんだから、誰からもとやかく言われる筋合いはないはず。

ただ、世間から見ると、中二病はとても痛い子らしい。

 

私は中学生の時、その中二病をこじらせたあげくに、不登校になった。

いじめにあったわけでも、家庭環境が悪かったわけでもない。

ただ、「学校に行く意味」がわからなくなり、その明確な答えすら無いのに、通うことなんてできないと思ったのだ。 

 

小・中学生と勉強もそこそこでき、まじめで、顔もそこそこ(←自分で言うなし)だった私は、学年一のイケてるグループに入ったりもしていた。

 

それが、中学二年生になったある日、ふと疑問が頭をよぎった。

「なぜ、同じ服を着て、同じ行動をするのだろう」

「なぜ、みんなはそんなことにも疑問を持たないのだろう」

「こんな行動をする意味は何なんだろう」

典型的な中二病

当時、両親、家族、塾の先生、みんなに聞いたけど、納得のいく答えがでない。

ますます混乱していく私。

混乱する頭でどうにか学校へ行こうとするも、どうしても行けない。

学校が見えてくると泣きたくなる。

家から出られない。

こうして、私は学校に行かなくなった。

 

学校に行かなくなった私を誰も責めなかった。

両親、塾の先生、学校の担任、みんな「そう決めたのなら」と受け入れてくれた。

それは、とても有難いことだったけど、それでも「中学に行っていない14才」という自分には劣等感を感じていた。

mukuの自己紹介

はじめまして。

むくです。

首都圏のとあるITベンチャーでサイト運営をする仕事をする、20代女子☆です。

 

中学で不登校になり、

高校は通信へ行き、

大学でようやく普通の生活へ戻ったかと思いきや…

既卒での就活、

外人社長のベンチャーでこき使われ、

ニート期間を経て、

日本人社長のITベンチャーで仕事をしています。